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    <title>逗子布教所龍溪寺</title>
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    <title>編集後記</title>
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    <published>2011-03-20T01:30:00Z</published>
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    <summary>地震は電気が切れることから始まった。ゆっくりした揺れがすぐに大きく、そして長く続...</summary>
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        <![CDATA[<p>地震は電気が切れることから始まった。ゆっくりした揺れがすぐに大きく、そして長く続き、その大きさの割には静かなのにかえって恐怖心がわく。古屋の庵にもかかわらず、物一つ落ちなかったが、立て続けに起こる強い余震に、日本のどこかで大きな地震があったに違いないと確信した。■引張り出したラジオに電池を詰め、バッテリーでパソコンを動かして東北が酷いことになっているのを知ったが、深夜に電気が戻りテレビに実態が流れるまで、これほどまでの壊滅的な被害は想像できなかった。■この世に絶対安全などということはあり得ないが、原発にまで至った事態は深刻だ。今に至ってとやかく論議している場合ではない。我々は文句言わず従うのだから、一番実態を知っていなければならない責任ある人間が今出来うる最善のことをしてくれていると信じたい。■阪神大震災のときは村山総理、今回は民主党と、奇しくも自衛隊嫌い、米軍出て行け政権時なのが皮肉だ。もっとも他の政党だって似たりよったりだが。日本だけが不戦を誓っても戦争は絶えず、災害は時も規模も選ばない。原発が実在しそれに頼りながら、「核」に向かい合わないことが正義としてきた、甘さ、おそまつさは言葉にもならない。■海の底を押し上げてエベレストやロッキー山脈をつくり、大陸を分けたり、くっつけたりしてきた地球で、起こりうる最悪を想定していては地球を住み家にはできないし、想定の甘さを後悔したり責めたりしているのは人間の傲慢かもしれない。■想定しておかなければならないのは、文明に頼り切る生活の危うさだろう。一昔前にはちょくちょく停電したものだが、せいぜい部屋の電気が消えるくらいで、ろうそくの火に家族が集まり、早くふとんに入ったりして子供心に何だかうれしかったくらいである。■今さら元には戻れはしないが、ハイテクは肉体から離れたものであることを自覚し、アナログの強さ、暖かさを侮ってはいけない。それが本来の生存本能であり、生きる智慧を育み、いのちあるかぎり生き抜く力になるのだから。　　　　　&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; norimaru</p>]]>
        
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    <title>『荼毘（だび）』</title>
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    <published>2011-03-20T01:00:00Z</published>
    <updated>2011-03-29T01:28:55Z</updated>

    <summary>「荼毘に付す」とは、火葬にした、では即物的に過ぎるというので使われているが、要す...</summary>
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        <![CDATA[<p>「荼毘に付す」とは、火葬にした、では即物的に過ぎるというので使われているが、要するに死骸を火葬にすることである。現在の日本は、殆どが立派な斎場（昔は、焼き場・火葬場と言った）で家族外の人によって行われる。中国は、本来が土葬の国であるが、仏教が伝えられてからはインドの習俗に起因し、加えて仏教信仰に基づくものとして、林葬、水葬などが移入され一般に火葬がひろまると、そのたびに為政者側から、儒教倫理などに立った不孝の甚だしいもの、礼法にもとるものとして弾圧されてきた。高名な高僧さえも荼毘に付された記録はないが、高僧慧遠の場合は、遺言により、その骸を松の木の下にさらし、のちに弟子達が収骨したとあるから、これは仏教者としての葬法に従ったものである。しかし、どのような葬法であれ、執着を断った死者の遺徳は変わらず、記憶は後世に伝えられた。日本の荼毘はどうであろうか。その光景として、米軍カメラマンが撮った1枚の写真を思い出す。死んだ弟を背負い直立不動で火葬の順番を待つ少年の姿だ。決して焼かれる様子を見なかったとあるが、そこには万感の想いがこめられている。荼毘に付すとはそういうことであろう。　　　　　　</p>
<p>この度のおびただしい大震災犠牲者の数を聞くにつけ、一日も早く葬ってあげたいと願う。それがどんな葬法になろうと、仏になるという尊厳に変わりはない。</p>]]>
        
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    <title>3月奏庵法座</title>
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    <published>2011-03-20T00:30:00Z</published>
    <updated>2011-03-29T01:26:40Z</updated>

    <summary>日時　3月26日（土）午前11時より 「みほとけにいだかれて」 阿弥陀経 法　話...</summary>
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        <![CDATA[<p>日時　3月26日（土）午前11時より</p>
<p>「みほとけにいだかれて」</p>
<p>阿弥陀経</p>
<p>法　話</p>
<p>ご文章拝読</p>
<p>「恩徳讃」</p>
<p>〜＊〜</p>
<p>おとき</p>
<p>　　　　　　</p>
<p>地震のあとどこか静かに感じる町によけいに不安を感じますが、ウグイスが鳴き出し、ふっと心を和ませてくれます。</p>
<p>春と冬を行ったり来たりしながらお彼岸を迎えました.</p>
<p>停電、余震、原発事故など、まだまだ落ち着きませんが、仏さまのことは何も心配いりません。どうかくれぐれもご無理をなさいませんよう気をつけてお参り下さい。</p>]]>
        
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    <title>親鸞聖人の御消息（手紙）にみる「いのり」</title>
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    <published>2011-03-20T00:00:00Z</published>
    <updated>2011-03-29T01:24:16Z</updated>

    <summary>東日本を巨大地震が襲ってから一週間が経ちましたが、皆さまにはご無事でおられるでし...</summary>
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        <![CDATA[<p>東日本を巨大地震が襲ってから一週間が経ちましたが、皆さまにはご無事でおられるでしょうか。またご親族、ご友人の被害はなかったでしょうか。お見舞い申し上げます。　</p>
<p>揺れと大津波は、一瞬にしていくつもの町を破壊し、何万人という人々の命と生活を奪い去りました。それは原子力発電所にも及び、被災地の人々のみならず、世界中が不安と恐怖におおわれています。　　</p>
<p>こんな時、私たちは自らの無力さ、また世の無常を思い、為すすべもなくただ祈らずにはおれません。</p>
<p>＊　　＊　　＊　　　　</p>
<p>世間で行われているお払い、自分にだけには厄が来ませんようにというような、いのり、祈祷は、個人の欲望が深く、すべての人々にという思い（菩提心）がなく、私利私欲の神頼みとも言えるようないのりは仏道に沿いません。ですから真宗では「祈らないよう」注意してきました。　　</p>
<p>親鸞聖人も『ご和讃』に、</p>
<p>　仏号むねと修すれども、</p>
<p>　現世をいのる行者をば、</p>
<p>　これも雑修となづけてぞ、</p>
<p>　千中無一ときらはるる </p>
<p>と述べておられます。</p>
<p>しかし一方で、お手紙『御消息（ごしょうそく）』には、</p>
<p>　世に曲事のおこり候ひしかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころを入れて、申しあはせたまふべし</p>
<p>と、世間の祈りを思うことが大事だと書き送られたお手紙もあります。　　　　　　</p>
<p>このお手紙（御消息）は、流罪がとかれたあと、永く関東に留まられ、み教えをひろめられ、ともにお念仏をよろこばれた北関東の同行にあてて、京に戻られてのちに書き送られたものです。　</p>
<p>親鸞聖人の生きられた時代は、長引く戦乱や冷害などが幾重にも重なり、人々は餓え、すさみ、京の鴨川や河原も遺体で覆われ、それを鳥や獣がつついていたといわれています。まさに地震と大津波が襲ったあとの被災地から報じられる光景そのものだったのではないでしょうか。</p>
<p>親鸞聖人は、</p>
<p>　この世・のちの世までのことを、いのりあはせたまふべく候ふ。......ひがうたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼし召しあはば、仏のご恩を報じまいらせたまふになり候ふ　</p>
<p>と、「自分の利益を祈るな」、「他を助けることは祈れ」と説かれ、いのりをすすめるようなお手紙も書かれておられます。　</p>
<p>＊　　＊　　＊　</p>
<p>生命あるすべてのものに出来うる限り寄り添って、その痛みや悲みを哀れみ思いやることができるのが仏道であり、人間が人たる由縁です。災害は、自然とともに生き、多くの恵みのおかげで生かされるものの宿業であり、かたちあるものは必ず壊れるという無常を受けとめることのできる日本人本来のDNA（宗教心）が、こういうときの姿をもってして世界の人々を称賛させるのかもしれません。　　　　　　　　　</p>
<p>しかし、残念ながら、我々凡夫の非力さは、悲しみを完全に取り除いてあげることも、思いやってあげることもできませんが、「子どもが、親が、家が町が流され、なぜ私は助かってしまったのだろうか」と、自分を責め、絶望する人にそっと寄り添って、いつの日か必ず立ち上がっていくよう見守ることはできるはずです。</p>
<p>「人々の深い心の声に、耳を傾けることがいのりである」とは、マザーテレサの言葉です。　　　</p>
<p>　自分の希望を願うことではなく、他を思うことが祈りです。　</p>
<p>今こそ利他の心を取り戻し、ひとり一人が隣の人を思いやりながらしっかり生きていきたいものです。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合掌</p>]]>
        
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    <title>編集後記</title>
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    <published>2011-02-20T02:30:00Z</published>
    <updated>2011-02-23T00:38:14Z</updated>

    <summary>GDP世界2位の座を中国に明け渡した日本には悲観論ばかりが充満している。それに輪...</summary>
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        <![CDATA[<p>GDP世界2位の座を中国に明け渡した日本には悲観論ばかりが充満している。それに輪を掛けて、国の重大問題を脳天気に語る首相や元首相に絶望感が加わる。どうせなら、"３番ではいけないのでしょうか"くらい言ったらどうなんだ。日本の下にいっぱい素晴らしい国が並んでいるではないか。■結局、金が無いと何も言えない成金で、追いつかれ、追い抜かれたのが、中国、韓国であることにいじけてしまっていることの方が問題だ。日本は世界を相手にしていたようで、ライバルはご近所だったようだ。せっかくの経済力を、せいぜい同級生に自慢したい、同僚より出世したい、社宅の誰よりも先にブランドのバッグを持ちたい程度のことに使い果たしてしまった。■卑屈と傲慢は背中合わせ、いずれにしろ負にしか向かわないマインドだ。卑屈から活力は生まれず、傲慢から信頼を得ることは出来ない。海外の経済学者からジャパンアズナンバーワンともてはやされた時代、隣に自慢げに見せびらかしていた金髪で青い目のお友達は、破産寸前の卑屈な日本に興味を失っていく。経済だけの付き合いしか出来ていなかったからだ。■世界はインターネット時代に入って久しく、益々その重要度と速度を増すだろう。しかし、それを活用するための語学力はアジアで最低、世界でも断トツに劣る。翻訳を挟むから判断に実感がもてないのか、グローバルスタンダードを気にし過ぎては足元を見られる。批判にいつも腰が引け、相手の出方を見てからでは常に遅れをとる。中国が経済のグローバル化には貪欲だが、スタンダードなどくそ食らえなのとは好対照、好き嫌いは別として、ある種ふてぶてしさ憎たらしさは羨ましい。■菅さんが世界情勢や経済に「疎い」のは明白、もはや救いようもないが、国の長が「バカ」だと思われている我々国民の心情を思ったことがあるのだろうか。国民のプライドを守るとはどういうことなのかを常に心していれば、立場ある者の処し方がわかるはず。それができないのだから、哀しいかな、ほんものの○○。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　norimaru</p>]]>
        
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    <title>仏教が生んだ日本語　</title>
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    <published>2011-02-20T02:00:00Z</published>
    <updated>2011-02-23T00:35:34Z</updated>

    <summary>『方便』　　　　　　　　　　　 「嘘も方便」ということがある。嘘はよいはずがない...</summary>
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        <![CDATA[<p>『方便』　　　　　　　　　　　</p>
<p>「嘘も方便」ということがある。嘘はよいはずがないが、物事を円満に収め、その場を収めるのに、時には必要な場合もあるというほどの意味で使われているだろうか。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>
<p>「方便」は、サンスクリット語「ウパーヤ」の訳で、近づく、到達する、巧みなてだて、便宣的な手段や方法という意味をもつ。仏が衆生を覚りへと導くためのてだてとして説かれた教えの意味で、真実に裏付けされた、仏の衆生教化の方法・はたらきをいう。（大谷大学編より）　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>
<p>人間ひとり一人の性格や能力は決して一様ではない。人それぞれにしたがって、教えを導く仏のすぐれた智を、方便智といい、そのはたらきを善巧方便という。仏教では、方便は虚言ではなく、あらゆる人を覚りへと導くすぐれた教化の方法であり、仏のもっとも具体的なはたらきである。あらゆる手段をめぐらして人々を真実の仏道に引き入れることを方便引入といい、また真実の道に導入するために設けられた教えを方便仮門という。方便は、真実に対する仮を意味するのみでなく、真実そのものでなければならない。阿弥陀仏も、南無阿弥陀仏も、我らを如来の真実世界に至らしめようとする方便法身、具体的な相としてあらわされた仏そのものである。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>
<p>"鳩山さん、あなたのは嘘。その場しのぎ、苦しまぎれ、に使う言葉ではないのですよ。"　　<br /></p>]]>
        
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    <title>2月奏庵法座のご案内</title>
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    <published>2011-02-20T01:30:00Z</published>
    <updated>2011-02-23T00:31:57Z</updated>

    <summary>日時　2月26日（土）　午前11時 「真宗宗歌」 正信偈 法話 ご文章拝読 「恩...</summary>
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        <![CDATA[<p>日時　2月26日（土）　午前11時</p>
<p>「真宗宗歌」</p>
<p>正信偈</p>
<p>法話</p>
<p>ご文章拝読</p>
<p>「恩徳讃」</p>
<p>〜＊〜</p>
<p>おとき</p>
<p><br />久しぶりの積雪でした。北海道に生まれ育って雪には辟易しているはずなのに、朝日に輝く庭木や家々の屋根の真っ白な雪化粧にウキウキするのは不思議です。北海道育ちの老犬も"このくらいは雪じゃない"と平静を装いながら、道草ならぬ道雪に思わず口にし、シャリシャリと美味しそうに食べる音に、これは北海道の春の雪解けの景色なのだ。だからうれしいのだと気づきました。春が日一日と近づいてきているのを感じるこの頃です。法座の日は出かけたくなるような天気になってくれることを願っています。気をつけてお参り下さい。</p>
<p><br />&nbsp;</p>]]>
        
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    <title>遇いがたくして、いま遇うことを得たり</title>
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    <published>2011-02-20T01:00:00Z</published>
    <updated>2011-02-23T00:29:29Z</updated>

    <summary>本願寺カレンダーの今月の言葉です。 この言葉は、親鸞聖人の主著、『教行信証』、正...</summary>
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        <![CDATA[<p>本願寺カレンダーの今月の言葉です。</p>
<p>この言葉は、親鸞聖人の主著、『教行信証』、正式には「顕浄土真実教行証文類」の総序の一節です。　</p>
<p>本文に入る前に、真実の教えにたどりつくのに、過去の因縁、多くの人たちのご苦労があったおかげを慶ばれておられます。　　　　　　　</p>
<p>私たちは日常生活の中で毎日誰かに出会い、いろんなものを見聞きし、多くの言葉に接して暮らしていますが、親鸞聖人が慶ばれたような感動をもって出逢ったり見聞きすることがどれだけあるでしょう。　　　　　</p>
<p>親鸞聖人は、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」とも述べられ、このご縁をいただけたことは、 よほどの強縁に依ることであり、ともどもに慶ぼうと述べられて います。</p>
<p>この教行信証は親鸞聖人ご自身の信仰の書であるとともに浄土真宗のご本典として教えの根幹をなすものであり、ご本願に至るご縁は阿弥陀如来の御はたらきでしたとの慶びが常に根底にあります。</p>
<p>＊　＊　＊</p>
<p>浄土真宗、お念仏の教えは「お聴聞が肝要」と言われています。死者が迷わないように供養する宗教ではないのです。今、生かされて生きているこの私がみ教えを聞いて、迷いのない人生を歩ませていただく宗教です。「聴」とは聴診器のように耳を傾けて聞くことをいい、「聞」は聞こえることですから、聴聞とは聞こえることを聴いてくという行為と言えます。最初はただ聞こえていたことが、よくよく聴いてみたら「そうだったのか」との気づき、いつか聞いたあのことは、このことだったのだ、という頷き、それが、「遇い難くして今遇うことを得たり」なのです。人一人が生かされているということは多くのものが恵まれているおかげです。たったひと息すら多くのおかげなしでは得られるものではないにもかかわらず、私たちはそのことを意識することはありません。　　　　　　　　　</p>
<p>お聴聞は私たち凡夫にとって、「ひとごと」だったことが「わがこと」だったと頷ける、気づかされる道なのです。</p>
<p>＊　＊　＊</p>
<p>先日の朝日新聞に「お布施から リベート」、僧侶→葬儀業者の記事が載っていました。かっては、ほとんどの家庭はお寺との縁が明確で、「うちのお寺は○○寺」と、子どもでも言えたくらいです。記事の内容はそんな時代には起こるべくもなかったことでした。社会構成や家族形態が変わり、住民の移動など、従来の寺檀関係が継続できる時代ではなく、お寺とそこに集うお同行も、その教えの通り、一期一会なのです。　　　　　</p>
<p>浄土真宗は、日常の生活の中で気づかされ、味わわれ、日暮らしのよりどころとなる教えです。先人の方々はそうして生き抜き、慶ばれたお念仏のみ教えを私たちに届けて下さっているのです。</p>
<p>＊　＊　＊</p>
<p>どうぞ、何処にあってもお寺と、何よりお聴聞のご縁を結んでください。その今が、次の今へ結ばれていくのです。お念仏の同行の集うところが浄土真宗のお寺なのです。　　　　　　　</p>
<p>教行信証は、"仏道は生死海の苦を除く法であります。その道に真剣にとりくむことが前に生まれたもののつとめです"という言葉で結ばれています。　　</p>
<p>これを親鸞聖人は、ご自分の責任であると自覚され、生涯を貫かれた方なのです。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合掌</p>]]>
        
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    <title>編集後記</title>
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    <published>2011-01-15T02:00:00Z</published>
    <updated>2011-01-27T02:04:14Z</updated>

    <summary>タイガーマスク現象が起こっている。養護施設の玄関にきれいにラップされリボンの掛け...</summary>
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        <name>東京首都圏都市開教対策本部</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kaikyou.net/zushi-fukyosho-ryukeiji/">
        タイガーマスク現象が起こっている。養護施設の玄関にきれいにラップされリボンの掛けられたランドセルのプレゼントが、マンガ、タイガーマスクのヒーローの名で置かれていたのが発端だ。それは学用品になったり、現金だったりしながら全国に広がっている、その全部が匿名だ。■　日本にまだ寄付という文化が定着していないのは、その昔、今で言う寄付行為を「施し」と言い、その言葉が「上から下へ」を感じさせるからだろうか。する方もされる方も素直にギブアンドテイクになれない。心のどこかにひっかかるものがあるのは事実だろう。確かに人にものをあげるという行為は難しい。そこに「してやる」という空気が少しでもあれば、人は敏感にそれを感じ取るからだ。■我々僧侶がいただく「お布施」も外国語に訳せば「寄付」だ。最近は「いかほど包めばいいのでしょうか」、「相場は？」と聞いてこられる方も多く、正直返事には苦慮する。出来れば聞かないでほしいものだ。何故なら、こちらはやっとの思いで応え、むこうが言われた通りに包んでくれていても、何故か「ありがたみ」が少なく感じるからだ。ましてや「言われたとおりに入れましたよ」というような態度が見えたりしたら、一日気分が落ち込んでしまう。■それがどんな気持ちをもって差し出されたお布施でも、「ありがとうございます」といただくのも大切な勤めであると親から聞かされてきたが、幾つになっても雑念があって乗りこえることが出来ない。■寄付（布施）の基本は、させていただいてありがとう。していただいてありがとうだ。この度の寄付の主は、有り余るものに恵まれている人ではないと思う。きっと何かふと幸せを感じた、そのことへのありがとうの寄付なのではないかと想像する。そう思うと我々までも何だかほっこりした気分になる。布施は金銭だけではない、優しい言葉、あたたかい態度、笑顔の布施もある。どれも、そうした方が気持ちがよくなる行為ばかり、寄付した人はそのことを知っている人たちに違いない。
        
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    <title>新しい年が明けました。</title>
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    <published>2011-01-01T01:00:00Z</published>
    <updated>2011-01-27T01:59:09Z</updated>

    <summary>今年は、親鸞聖人が亡くなられて７５０年目にあたります。ご本山・西本願寺はもとより...</summary>
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        <![CDATA[<p class="paragraph_style_1">今年は、親鸞聖人が亡くなられて７５０年目にあたります。ご本山・西本願寺はもとより、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ真宗各派の各本山では、『親鸞聖人７５０回忌』の大法要が勤められます。</p>
<p class="paragraph_style_1">これに先だって、西本願寺では、世界遺産となったことへの重責と、ご遠忌をお迎えする記念事業として、全国の末寺、ご門徒から寄せられた浄財によって、「平成の大改修」が行われました。このことはテレビなどでも大きく報道され、浄土真宗を越えて、広く多くの人の目に触れることになったことは、私たちにとって誇らしくもあり、ありがたいことでした。しかし、この法要はこれからの次世代への通過点でしかありません。今、この通過点の勝縁に遇うことのできた私たちには大切なことが残されています。　　　　　　　</p>
<p class="paragraph_style_1">＊　　＊　　＊</p>
<p class="paragraph_style_1">親鸞聖人という方は、大勢の大衆前に上に立って声高に法を説く人ではありませんでした。ご自身はあく まで法然上人を師と仰がれ、法とは説くものではなく聞くものだったからです。『歎異抄』にも、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と仰せられたとあり、ただ如来の言葉を聞くという、絶対他力の 生き方を自らの生涯をもってお示しになられた方なのです。 言うなれば、聞いたものを自らかみしめ、つぶやいて、それをまた自ら聞いていくという生き方でした。それが「聞法」であり、お念仏のみ教えに生きるということの姿として今に至り届けられてきたのです。</p>
<p class="paragraph_style_1">＊　　＊　　＊　</p>
<p class="paragraph_style_1">また一方で親鸞聖人は、当時の仏教界に対しての激しい怒りも書き残されました。その怒りはまた、その人々と世の中に対する悲しみでもあり、同時に自分自身への悲しみ、嘆きとして、真正面から受けとめられておられるものでした。そのいきどおる思いはいつか、「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」というつぶやきとなりました。これは、弥陀 の救いを独り占めするというのではなく、世の人はどうであれ、愚かしいのはこの親鸞であるとの悲しみでありました。同時にこんな親鸞にかけられた本願のありがたさへの心から出る喜びのつぶやきだったのです。それは、この親鸞が救われたら世の人も救われるのだ、何人よりもこの親鸞一人が救われねばならぬ、親鸞が救われる道に世の人も救われるのだという大きな安心でもありました。</p>
<p class="paragraph_style_1">こうしてみると、孤高にみえますが決してそうではありません。あの人を思い、この人を思い、千々に揺れ動く人の心をじっと一点に集めて、自分を慕う人々にお念仏の声を送られ、常に大衆の中にありました。それゆえに、そのいとおしさが届かない自分の非力を嘆かれたのでしょう。　　　　</p>
<p class="paragraph_style_1">親鸞一人が救われるお念仏に、親が、子が、妻が、そしてすべての衆生が救われるのです。何も賢善ぶって、衆生を化導しようとしたり、慈しもうと焦ったり、力むこともないのです。自分一人のお念仏の中に、多くの人々も自然も救われていくのです。　　　　　　</p>
<p class="paragraph_style_1">＊　　＊　　＊</p>
<p class="paragraph_style_1">私たちがお勤めさせていただくご法事は、このことに気づかせていただき、生かされているありがたさを喜び合う仏法の行事です。　</p>
<p class="paragraph_style_1">この度お迎えする「親鸞聖人７５０回忌大遠忌法要」も、その心に立ち返って勤めさせていただかなければなりません。ひとり一人のその思いがあってこそ、立派なご法要だといえるのではないでしょうか。</p>
<p class="paragraph_style_1">合掌</p>]]>
        
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    <title>編集後記</title>
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    <published>2010-12-20T02:30:00Z</published>
    <updated>2011-01-07T05:34:15Z</updated>

    <summary>編　集　後　記情けなくなるような話題ばかりの日本に、二人のノーベル化学賞受賞は、...</summary>
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        <name>東京首都圏都市開教対策本部</name>
        
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        <![CDATA[<p>編　集　後　記<br />情けなくなるような話題ばかりの日本に、二人のノーベル化学賞受賞は、明るい、元気が涌いてきそうなうれしい出来事だった。■その一人、アメリカに住み大学で教鞭をとりながら、研究を続けている根岸教授が、色紙に書いた英文は、「へこたれずに、崇高な夢を求めなさい」という意味だそうだ。また、「こころざしは崇高に、それに向かっては楽天主義で」とも言っておられた。■これこそ、元来日本人がもっていたはずの気質だったと思う。それがどうだろう。すぐへこたれる。夢は低級。こころざしというような上等なものはない。多くの日本人は、夢やこころざしを「欲望」と同等にしてしまっている。政治家も教育者も、親も子も、もっているのはこころざしではなく欲なのだ。だから、言うことがその都度ぶれる。■それから「競争が大事、評価にさらされ成長する」とも言われる。これも、ここ半世紀、日本ではいけないこととされてきたことだ。競争は、一番か二番かと順位の決着をつけるためのものではない。"ああなりたい"というあこがれや目標となるものであり、切磋琢磨して互いを向上させるものだ。■教授にとってノーベル賞は夢の実現であったがゴールではない。研究に果てがないのは人生と同じだ。我々凡人には、ノーベル賞に値するような研究も趣味もないが、人生がある。同じように崇高なこころざしに向かって、へこたれず、そして楽天主義で生きることを目指したいものだ。■人生の日々は、打者でいえば、ホームランはめったにない。打っても単打、ほとんどが凡打だ。でも誰かがホームランを放てば、"おー"と感激したり、自分がまぐれで三塁打を打てば、"まだまだやれるぞ"と力が出る。上手な者とうまくいかない者がいていい。評価にごまかしはいらない。そのままを受け入れることが出来る者の方が、生き方としては上手なのだから。■いじいじと情けない国の国民ではいたくない。崇高なこころざしと、明るく楽天的な生き方のできる日本人でありたい。　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　　　norimaru</p>]]>
        
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    <title>平成23年度年回表</title>
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    <published>2010-12-20T02:00:00Z</published>
    <updated>2011-01-07T05:32:08Z</updated>

    <summary>一周忌　　　平成22年 三回忌　　　平成21年 七回忌　　　平成17年 十三回忌...</summary>
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        <name>東京首都圏都市開教対策本部</name>
        
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        <![CDATA[<p>一周忌　　　平成22年</p>
<p>三回忌　　　平成21年</p>
<p>七回忌　　　平成17年</p>
<p>十三回忌　　平成11年</p>
<p>十七回忌　　平成 7年</p>
<p>二十三回忌　平成元年</p>
<p>二十五回忌　昭和62年</p>
<p>二十七回忌　昭和60年</p>
<p>三十三回忌　昭和54年</p>
<p>五十回忌　　昭和37年</p>
<p>百回忌　　　大正元年</p>
<p>○　23回忌と27回忌を併せて、25回忌（50回忌の半分）としてお迎えすることもお考え頂けます。</p>
<p>親鸞聖人のお説きになった浄土真宗は浄土に往生し、仏さまとしてすぐに私たちの世界に還ってくると言う教えです。ですから、亡くなった人を供養して早く成仏して欲しいというための追善供養は要りません。既に仏として私たちと共にあるのですからご法事は感謝の集まりとご理解下さい。したがって、しなければ先祖が祟るなどと言うことも、遅れてはいけないなどということもありません。「ありがとう」ということの集まりとして相応しいときにお勤め下さい。</p>]]>
        
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    <title>12月奏庵法座</title>
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    <published>2010-12-20T01:30:00Z</published>
    <updated>2011-01-07T05:30:01Z</updated>

    <summary>日時:12月26日（日）午前11時 「真宗宗歌」　　　　　 正信偈 法　話 ご文...</summary>
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        <![CDATA[<p>日時:12月26日（日）午前11時</p>
<p>「真宗宗歌」　　　　　</p>
<p>正信偈</p>
<p>法　話</p>
<p>ご文章拝読</p>
<p>「恩徳讃」</p>
<p>〜＊〜</p>
<p>おとき</p>
<p>平成22年の最後のご法座となりました。暑い日、寒い日、雨の日もいとわず、この階段を上って下さる皆さまを玄関に迎えれば、ほんとうに頭が下がります。先月お迎えした我々の恩師も82歳ですが、"この坂はいつ来てももいい、まさに法縁坂だ"と言って下さいました。今年も恒例の年越しそばで締めたいとお待ちしています。</p>
<p>どうぞお参り下さい</p>]]>
        
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    <title>いま・今のありがたさ</title>
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    <published>2010-12-20T01:00:00Z</published>
    <updated>2011-01-07T05:27:21Z</updated>

    <summary>２０１０年も暮れようとしています。世相的には今年も決して明るいとはいえませんでし...</summary>
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        <name>東京首都圏都市開教対策本部</name>
        
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        <![CDATA[<p>２０１０年も暮れようとしています。世相的には今年も決して明るいとはいえませんでしたが、皆さまにはどのような一年だったでしょうか。きっと、悲しいと感じること、辛くてくじけそうになることの方が多かったことでしょう。</p>
<p>＊　　＊　　＊</p>
<p>我が家では、先日、嫁のお父上が６８歳で亡くなりました。一昨年くらいから万全とはいえない体調ではありましたが、その時は突然やってきました。その日から亡くなるまで２週間、坊守である妻と4人の子供たち家族はそれぞれ自分のなりわいを果たしながらやりくりして、死近き父親に寄り添いました。　</p>
<p>覚悟はできていても、大切な人との別れを受け入れるのは悲しく辛いものです。しかし、皆が口には出さずとも、父親が願っていることは何か、それに添うということはどういうことなのかを思いながらの毎日だっただろうことをひしひしと感じました。出来る限りお念仏のご法義に添いたいと努めた生き方、自らの死をもって今までに増して強くはたらきかける尊さを、それぞれが、それぞれに感じた、ありがたい時間でした。</p>
<p>&nbsp;ひとの生をつくるはかたく、　　　</p>
<p>&nbsp;死すべきものの、　　　　　</p>
<p>&nbsp;生命あるもありがたし　</p>
<p>　　　　　　　　（法句経）</p>
<p>人と生まれた生命の驚きを教える教説です。「ありがたし」とは、そ の仏説を聞くことができ、生命の尊さに目覚めた、大いなる感動を表すのに、 もっともふさわしい言葉でもあります。それがいつしか「ありがとう」と、感謝の意に使われるようになったのです。先人たちのこのような宗教的に完成した心情を想うとき、日本語の中でも、特にすぐれた美しい言葉だと感じます。</p>
<p>＊　　＊　　＊</p>
<p>生命（いのち）をいちばん思うのは、大切な人の死でしょう。いのちを看取るという大きな経験は、「ありがたい仏縁」と申すほかありません。ほんとうはいちばん感受性の強い時期、子ども時代から思春期にかけて、「生きる」だけでなく「死」についてきちんと教えることがなければなりません。何故なら、生あるものは必ず死を迎えるときがくるからです。それは、大切な人かも知れないし、自分自身かも知れません。またそれは、明日かも知れず、次の瞬間かも知れないからです。　　　</p>
<p>浄土真宗では、蓮如上人の書かれたお手紙「白骨のご文章」が、お通夜や葬儀の席で読まれます。両手を合わせ、頭を垂れて聞く「ご文章」は、何にも勝るなぐさめの言葉です。大切な人を失った人の心に深くしみわたります。原文は格調高い古文ですが、今のことばでは、　　　</p>
<p>『人間のありさまをよく考えてみると、はかないものは人間が生まれて死ぬまでのこと、それはあたかも幻のようなものです。未だに万年の寿命を授かった人の話を聞いたことはなく、一生は過ぎやすいものです。今までに誰が百年変わらぬ肉体を保った でしょうか。私が先に死ぬものか、人が先に逝くものか、 それは今 日かもしれず、明日かもしれないのです。 たとえ誰が先になるかはわからぬとも、葉っぱの先の露が散っていくよりも多くの死があったのです。朝には頬が若々しく紅かった人が、夕べには白骨となる。無常の風がひとたび吹けば、即座に眼は閉じ、息も絶えてしまいます。親族郎党が集まっていかに嘆き悲しんでも、元に戻ることはありません。そのままにしておくこともできず、荼毘に付せば、ただ白骨が残るだけ。哀れだと言ってみたところでどうしようもないのです。人生の終わりは、老いた者が先に逝く、幼い者は後に残るとも言い切れません。でも、誰であっても、お浄土というふるさとに還ることを心にとめて、阿弥陀如来におまかせして念仏させていただくしかないのです。おそれ多いことであり、ありがたいことなのです。』　　　　　　　　　　　　</p>
<p>＊　　＊　　＊</p>
<p>多くの試練にあいながら、私たちは今一年を終え、また新しい年に向かおうとしています。この今はほんとうに「ありがたい」ことであり、「おかげさま」と受け取らせていただくほかにありません。　　　　　</p>
<p>暗い世相の一年でしたが、今あるそのままが「ありがたい」のです。そのように味わうとき、また新しい一歩を踏み出す力とよろこびが私にも恵まれてあったことに気づかされるでしょう。</p>
<p>どうぞよいお年を！　　</p>
<p>合掌<br /></p>]]>
        
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    <title>編集後記</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kaikyou.net/zushi-fukyosho-ryukeiji/2010/post-28.html" />
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    <published>2010-11-20T03:00:00Z</published>
    <updated>2010-12-01T07:30:32Z</updated>

    <summary>今年もまた友人が逝った。６３歳だった。山口県の親の代からの養護施設の園長をしなが...</summary>
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        <![CDATA[<p>今年もまた友人が逝った。６３歳だった。山口県の親の代からの養護施設の園長をしながら、マメに福祉会議やボーイスカウトの集まりだと言って上京して来ては必ず連絡をくれ一緒に飲んだ。仕切り屋で賑やかなことの好きなところが私とは大分違うのになぜか気が合った通い合うものがあったのは何だったのだろうと思う。家内とは学年もゼミも一緒だったが、私とは京都の下宿近くのスナックで何度か顔を合わすくらいだったのが、結婚後は家族付き合いになり、すっかり飲み友達になっていた。■癌が発覚してからたった１ヵ月、それも食べたものを戻したり、体重が減ったとかではないというから、羨ましいような往生だ。私は予定が外せず、家内だけが駆けつけた。眠っているようなとか、きれいな顔だった、とか言うけど、ほんとうにその通りのに初めて会った。彼の今までで一番いい顔だった、と報告してきた。■既に肝臓とリンパに転移していて施しようはなく、 胃を全摘しても、再入院では、最後になるからと仏壇にお参りし、これを着て還ると、自ら衣と袈裟を持って行ったと言う。寺に生まれ得度はしていた。園長引退後は空き寺に入って暮らす、と言っていたことを想い出す。きっといい住職になったことだろう。惜しまれる。■公の本葬は園にお任せ、密葬は家から家族でと、自ら植木屋も手配し、親友の住職にお願いして、「死ぬ仕事（人生）」をやり遂げた。好きだったもの、手紙、写真も入れたら？めがねを掛けてあげないと、と促す人にも、奥さんは主人から何も心配のないところに還るのだと聞かされていたのでと、最近お気に入りだった袈裟と親友の僧侶からの数珠を掛けて棺に納まって、いい仏さんだったようだ。■納棺後正信偈をあげはじめると、しっかりついてくる彼の遺した家族の声にはじめて泣けたと家内が帰ってきて話した。我々の繋がりは、血縁でも地縁でもない、まさしく法縁だった。彼の死後も切れることのない縁である。&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; </p>
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; norimaru　<br /></p>]]>
        
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