『逆境をのりこえて』

善行寺の寺報

2010年3月16日 18:02

先日、法事を執り行わせていただいた席である参列者の方から「 宗教というものは普段の平穏な生活の中では必要なく、何か身内に悲しいことや痛ましいことがあった時になって初めて、必要性を感じるものですね。」と、率直な感想をいただきました。

続けて その方は「 宗教や仏教というものは逆境(ぎゃっきょう)の方の為に存在しているんでしょうねえ。」と述べられました。

宗教や仏教、そしてお寺という存在が「 身内に悲しいことや、痛ましいことがあった逆境の時だけ、その悲しみや 痛みを慰める為にある 」存在であるとするのであれば、あまりに寂しい捉え方でありますが、一般ではそのように" 逆境 "の時に、" 逆境の方 "の為だけにあると捉えていらっしゃる方が多いのも事実であります。

確かに、悲しい痛ましい逆縁から仏教・浄土真宗に出遇われた方もおられます。また小さい頃から順調に家庭やお寺の日曜学校から、仏教・浄土真宗、念仏の道に入られた方もいらっしゃいます。そういう意味においては、宗教や仏教への経路としては順縁からも、また逆縁からもあるというのが本当でありましょう。

宗教や仏教を悲しいことや痛ましいことが、自らの身にふりかからなければ別段必要なく、無縁な存在であると考えるのは、誤っていると言わねばなりません。ですので、先ほどの参列者の方に「仏教・浄土真宗は逆境の為だけにあるのではありません。しかし、仏教・浄土真宗の念仏者においては、逆境を逆境として受け止めながら、力強く一歩を歩みながら、のりこえさせていただく道であることは確かです。」とお答え致しました。


ふりかえれば、私たちの人生は楽しいことや嬉しいことばかりではなく、悩み苦しみが絶えないことを仏教は顕かにしています。その人生の中、悲しいことや痛ましいことを逆境として捉えるのではなく、それもこの私に" 苦 "を知らしめるご縁(縁起)であったといただきたいものです。

その奥底には、苦悩を抱えた一切衆生(生きとし生けるもの)の苦悩というものに共感し、私たちが逆境に遇うよりはるか以前から、そのもの達を救わずにはおれないと誓い続け、願われ続けている阿弥陀如来が、私にその誓いと願いを向け続けて下さっていたことを信知させていただくご縁がこの世で受ける順縁であり逆縁でありましょう。

 《 ときをきらはず、ところをへだてず
   ひまなく
真実信心のひとをば つねにてらし まもりたまふなり
   ( 一念多念証文・浄土真宗聖典683頁 )》

私たちが順調なときも、または苦しみ悲しみが尽きない時も、ひたすら照らし護りたもう唯一の仏さまが阿弥陀さま(如来)でありました。

その阿弥陀さま(如来)の大悲の中にいだかれたものは、順縁も逆縁もだきあげてのりこえる道を行くものと、ならしめられるのでありました。


どうぞ、いただいた いのちとご縁を大切に。

順縁・逆縁とは
  私がめざめさせていただく
      法の縁

 

合 掌

 

善行寺住職 ・ 吉 井 誠 光


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